救世の結末

 戦いは、あらゆる点に於いて互角。完全な均衡の元で繰り広げられる。

 だから、俺は気付いてしまった。

 この戦いは勝てない。例え技に於いて、力に於いて、速さに於いて、全てが目の前の敵に勝ったとしても、絶対に俺は目の前の男に勝てないのだ、と。

「どうしたクリューノ。剣の動きが鈍いぞ」

 フィリエル・サイの唇が魔王の言葉を紡ぐ。

 それは小さな、しかし決定的な隙である。いかな剣豪と言えど剣戟の最中に言葉を発せば必ず、それがどれほど微細なものであろうとも隙が生じる。そして俺は、その隙を突けるだけの実力を自負ではなく持っていた。その筈だった。

 剣が弾かれる。

「黙れ」

 低く唸りながら、力任せに剣を振るい、切りかかる。

 全て気付かれている。迷いも、苦しみも、無念も。今俺がその隙を突けなかった理由が、全て。

 己の未熟からではない。むしろ、そちらの方がまだマシだったろう。

 フィリエル・サイは微笑う。

「親友よ、失望した。俺の生涯の強敵は是程のものであったか」

 言いながら、その顔にへばり付く表情は失望のものなどではない。あからさまな愉悦。こちらの逆上を誘う挑発だ。

 俺は息を乱さない。冷静に剣を打ち、弾きながら魔王の言葉に返す。

「その口で語るな、魔王。お前が一言発するごとにフィリエルの言葉が汚される」

「なればこそよ、黒の聖剣士クリューノ」

 フィリエル・サイは微笑う。

 その姿に、かつて《輝ける白》とまで言われた神聖さは残っていない。

 身から立ち上る瘴気に、風は腐り、地はおののき凍える。フィリエル・サイはこんな風に微笑った事など無かった。

 これは魔王の微笑だ。

 一合打ち合うたびに、衝撃で大気が軋み、光芒が弾ける。 

 不意に遥か遠く、故郷リーヴァの森を思い出した。あの時、俺とアイツの手が握っていたのは僅か三尺にも満たない赤針樹クサの小枝だった。

 息も吐かず剣を振るい続ける。その先に何が待つのかは、考えないままに。

 今はどうだろう。戦女神シェルナンの髪より生まれたとされるエネアの聖剣を振るい、一振りで山を砕き海を裂く魔王剣アシュレイを受けている。

 剣の衝突のより生み出される力の余波はそれだけで凄まじいものだ。行き場を失ったマナが電光となって飛び、コンクリートで作られた屋上のタイルをぼろぼろに崩していく。既に一部は瓦礫となって崩れ、階下へと落ち込んでいた。

 既に何十合打ち合ったかは覚えていない。突き、返し、裂き、流し、また突き。流麗なリズムは音楽に通じ、剣を振るう者の、完全な形がそこに繰り広げられていた。

 一部の隙が即、死に繋がる綱渡りの舞踏。

 一命を賭したこの戦いに、しかし俺は高揚を感じ得ない。リーヴァの森には確かにあったそれが、今はどこにあるか分からない。今の俺の剣は昔の俺の剣に劣っているだろう。技、経験、そういったものの問題ではなく、心が遥かに届いていない。

 聖剣が一際に大きな音を立て、弾ける。

 西暦一九九九年、七月。俺は世界救う聖戦士の一人として、世界を滅ぼす魔王と剣を打ち合わせていた。



 がくんと顎が滑り落ちる。

 一瞬、自失する。自分のおかれている状況が分からない。

 辺りを見回す。冷たい蛍光灯と、暗く俺の顔を映す窓ガラス。低音で断続的に響くレールの音に、ようやく俺は自分が電車に乗っているということに思い至った。

 擦り切れかけた意識をかき集めて、状況を確認。ついで、そこに至るまでの経緯を思索する。そういえば、丁度会社から帰宅している途中だったか。

 断定できないのには訳があった。ここ数日の記憶が連日の徹夜の所為かはっきりとしないのだ。

 今こうして電車に乗っているということは、仕事は無事一段落ついて帰宅途中であると推理するしかない。というか、それ以外の可能性についてはあまり考えたくなかった。

 腕時計の、今時珍しいアナログ短針が指しているのは午後八時を少し過ぎた辺り。

 段々と意識が鮮明になってくる。短時間とは言え睡眠をとったのが幸いしたのか。降りるべき駅を寝過ごしていないかを、確認。車内の電光掲示板を見ると都合のいいことに次の駅だった。心のうちでホッと溜息をつく。

 常人に比べれば遥かに高い肉体性能を持つ俺でも、寝なければ当然眠くなる。覚醒が後数分遅れていれば、降りるべき駅を乗り過ごして残念な事になっていたことだろう。

 帰ったら寝よう。即刻で、一も二も無く寝よう。ありがたい事に明日はたしか休日だった、一日中惰眠をむさぼろう。そう決意を固める。

 急な仕様変更などで休日出勤を申し付けられなければ、の話だが。

『波木橋〜、波木橋〜。お降りの方は――』

 鞄を掴み、立ち上がる。 

 電車を降りる人ごみに流されるようにしてホームに押し出された。むっと生ぬるい空気が頬を撫でる。不快ではない。水気を含んだ風は、遥かレムリアの記憶を思い起こさせる。俺はこの季節が好きだった。

 意識せずに大きな溜息が出る。

 何もかもが面倒だ。このまま夏の夜の空気に溶けて消えてしまえば、そんな事を夢想する。夢想して苦笑する。なんて無様な、十代のナイーブなガキでもあるまいし、選挙権をもった大人が考える事じゃない。

 それでも、ひと時だけそんなことを考えた。

 いつからだろうか、世界がこんなにつまらなくなったのは。

 街の光に圧され、星を失った夜の空を見上げる。十分に晴れているのに天の川さえ見えない。昔見た空はこんなものじゃなかった。疾きグルカの流れのほとり、フィリエル・サイと見た空は、こんなものじゃあ――

 空には蒼い月が高く、高く昇っていた。

 ――ああ、思い出した。

 記憶の遠くで声が聞こえる。

 なんて大切な事を忘れていたのだろう。今宵、見上げた空の中で唯一輝くあの月は、あの夜の蒼い月と同じものだという事を。

 少し可笑しい。だから、あんな懐かしい夢をみたのだろうか。懐かしくも哀しく、忘れる事など出来よう筈が無いあの夜の夢を。

 もう、五年になる。まだ、五年にしかならない。

 俺の剣がフィリエル・サイの胸を貫いてから。一九九九年七の月、約束された終末の魔王を滅ぼしてから。

 丁度今日で五年目になるのだ。



 改札を出て、月に誘われる。

 なんとなく、バスに乗って帰るのがもったいなかったから、夜道を一人歩く事にした。自宅まで徒歩で三十分弱、歩けない距離ではない。日の落ちてますます騒々しさの増す歓楽街を一人通り抜ける。

「離して下さいッ」

 ふと、聞き覚えのある声が耳に入った。

「遠慮しないで、ちゃんと家まで送っていくからさ。酔ってるでしょ」

「結構です。酔ってませんから」

「また、照れちゃって」

 なんでもない、男と女の言い争う会話。普段なら気にも留めずに通り過ぎるところだが、今夜の場合そういう訳にもいかない。

 足をそちらの方へ向ける。

「良いじゃんか、夜中女の一人歩きは危険だって」

「いい加減にしろ、あんたと一緒の方が危険だこの変態ッ!」

 小気味良い張り手の音が、意外に高く響いた。思いっきり叩いたのだろう、男の頬が赤く腫れていく。少し、割って入る気力がなくなってきた。

 殴られた男は、何が起こったかわからぬというように呆然と目を瞬かせる。やがて、自分が殴られたという事実に思い至ったると、逆上して唇を振るわせる。

「な、なにをする……」

 男の顔が赤いのは酒気の所為だけでは当然無い。恐らく衝動的にだろう、怒気を握りこぶしに込めて高く振り上げた。

「その辺にしとけよ」

 振り下ろされる前に、後ろからそれを掴んで止めた。

 こちらに気付いた女の目は驚いたように見開かれている。男は、不快気に俺の手を振り払い、振り返ってこちらを向く。

「なんですか貴方」

「そいつの男だ、アンタこそなに」

 そう言って睨みつけてやると急に勢いを無くし、口ごもる。

「あ、いや……」

「失せろ」

 多少のドスを効かせて言い、突き放す。男はよろめいて数歩下がると、そのままあたふたと踵を返した。人ごみに消えていく。

 女の方を見やる。状況がつかめていないのか、俺の顔をぼうっと黙したまま凝視している。

「すまないな」

 とりあえず謝っておくと、意表を突かれたような間の抜けた声が返ってきた。

「へ?」

「お前の男だって言ったこと。手っ取り早く追い払うためだったんだが、とっさのことで気遣いが足りなかったかもしれない。すまない」

「あ……いや、いいんだって」

 慌てたように彼女は取り繕い、さらに小声で付け加える。

「その、別に嫌じゃないし、さ……」

 良くは分からないが、不快ではなかったようだ。少し安心する。

「今の男は?」

「あ、うん。合コンで……」

 言いかけて、何故か取り繕うように慌てて言いなおす。

「いや、合コンって言っても、付き合いで断れなくて、ただ愛想良く座ってるだけで良いからって。だから二次会には行かず帰ろうとしたんだけどしつこく家までついてこようとして、だから別にそんなんじゃなくてってあたし何言ってんだああもうッ」

 まくし立てる用に言って頭を抱え、それっきり黙りこんでしまった。

 どうも、居心地が悪い。久しく会っていなかった所為か何処かぎこちないのだ。以前はどちらかというと明朗快活といった四字熟語が似合う少女だったのに。

 無理も無いか。五年前自分の行った所業を思い出し、言葉を探して口を開く。だが結局、何も言えずに口を閉じた。

「それじゃあ」

 何も言わずに立ち去る事にしよう。手を上げて、方向転換――

「あ、待って」

 ――したところで呼び止められた。振り返ると彼女は何かを振り払うように首を振り、真剣な表情で右拳を突き出した。一言言う。

「“再会に感謝を”」

 知っている言葉だった。それに倣って俺も右拳を彼女の左胸へ突き出し、応える。

「“縁繋ぐタルハナの蛇に祈りを”」

 故郷の聖句である。最後にこの言葉を交わしたのは五年前、転生者としての彼女らと再会した時になる。

 拳を引き、互いの手の甲を合わせて斉唱。あの時は七人、今は二人だけでこれを唱える。

「“我、共に生死を分かつ者。この友人に剣の祝福あらん事を”」

「“我、共に生死を分かつ者。この友人に杖の祝福あらん事を”」

 彼女の口元が、不意に綻んだ。記憶にある通り、例えるなら真夏に咲く向日葵のような明るい微笑。

「久しぶり、クリューノ。雰囲気変わったから一瞬誰かと思った」

「君の方は相変わらずだ、シャーレ。声だけでわかったよ」

 白銀の魔女シャーレミント。彼女も、世界を救った七人の聖戦士の一人で、五年ぶりに合う俺の大切な仲間だった。



 聖戦士は、無色なる巫女姫シーフィレイアスの召集に応じ遥かレムリアより転生した光の戦士たちは全部で七人いた。

 エネアの聖剣を振るう白の聖剣士フィリエル・サイ、その対となる俺、黒の聖剣士クリューノ。白銀と黄金の魔女、シャーレミントとグリュミエール。三原色の戦士、ルィミエーズ、ファルトラ、アート・イェネモン。

 五年前、俺は彼らと共に世界を救うべく奔走していた。

 毎日が収束していく魔との戦いだったあの頃、今ではそれを懐かしく思う。平和な日々に浸かりながら、戦いという温室に浸っていたあの頃を。

 戦いが終わって、魔王と巫女姫シーフィレイアスと、フィリエル・サイが死んでから、俺たちは短い夢から覚めるようにそれぞれの日常へと立ち戻っていった。

 世界を救う事にかまかけていた俺たちが受験勉強などしているはずも無く、進学に失敗した聖戦士も多かった。前世の記憶が、戦略級兵器にも匹敵する力と世界を救ったという自負が邪魔をして人付き合いに失敗し、孤立を深める者も居た。

 留年や、退学、仕事の無い日々。やる事べき事が見つからず、ただ日を追うフリーターとしての生活。日常に戻った聖戦士たちは最早なんでもないただの人に過ぎない。

 待ち望んだはずの日常は何故か味気ない。フィリエル・サイが居ない。四年の大学生活を破綻する事無くつつがなくこなした俺も、この平凡な日々に未だ慣れる事が出来ないでいた。

「飲んでる、クリューノぅ」

「ちゃんと飲んでるよ」

 シャーレミントに誘われるまま、俺は高架線脇のやきとり屋台に座っていた。

 焼酎の入った紙コップを上げて、シャーレミントの言葉に答える。実際、俺はかなりの量の酒を飲んでいた。『バクダン』と書かれた一升ビンを三本、既に二人で開けている。

 そういえば彼女は酒飲みだった。五年前は皆未成年だったし、酒を飲む機会は無かったのだが、前世では底なし沼とかうわばみとか散々言われていた事を思い出す。まぁ、それに付き合えてる俺が言えることでもないのだが。

「そういえば、シャーレは今何をしているんだ」

「んん? 大学。院まで行こうと思ってるんだけど、どうだろ」

 困ったように笑いながら、彼女は掌を開いてみせる。

「いっそ、手品師にでもなりますか。種も仕掛けもございませ〜ん、って」

 マナが収束し、火球が生み出される。最高級の魔女、白銀のシャーレミントの火球だ、これ一つで軽く家が吹き飛ぶだろう。

「そういうアンタこそ何してんのよ」

 火球を生み出したマナを拡散させながら、今度はシャーレミントが問い返してきた。

「俺か? 会社勤めだよ」

「へぇ、サラリーマン?」

「いや、プログラマー」

 言うと、何故か驚いたように眉をひそめられた。

「マジ?」

「マジ」

「似合わねェ、いや、ある意味ぴったしか。暗いし、無口だし、引きこもりのオタっぽい」

 けらけらと笑いながらシャーレミントは言い立てた。流石に少し傷つき、声に不機嫌さが出る。

「ほっとけよ」

「怒らない怒らない。っつうか、プログラマーってTシャツとかで仕事してるんじゃないの?」

「偏見だ。外に出ない仕事だから、そういう人も居るけど」

「ふーん、まぁちゃんと仕事できてるんだね」

 何故か嬉しそうに頷く。少し不思議に思った。俺が仕事についているだけでそれほど嬉しいものだろうか。率直に疑問を口にする。

「なにが嬉しいんだ」

「グリュミエールがさ、心の病院に入ったんだって」

 シャーレミントはその問いに答えず、唐突に話を切り出してくる。それは、俺を絶句させるに足る一言だった。

「あの娘、フィリエルの事を好いてたでしょう。もともと心の細い娘だったし、あんな事があって壊れてしまったらしいの。面会に行こうとしたら、グリュミエールのお母さんに面向かって、あんた達の所為だってののしられたわ。あんた達が、娘を変な道に引きずり込んだからだって」

 黄金の魔女グリュミエール。鮮明に、泣き顔を覚えている。最後に会ったとき、瞳に憎しみの焔を宿して俺を睨んでいた。

「アートは暴力事件を起こしたって」

「……知ってる」

 先日、新聞に載っていた暴行事件。犯人は不明ということになっているが、マナの痕跡を見れば同じ聖戦士がやったという事は明らかだった。現代の地球にも魔法使いは居るが、俺たちほど強大な力を操れる者はいない。

「前世の記憶を妄想だってバカにされて。当然だよね、自分達が世界を救ったなんて、そんなこと言っても信じられるわけない」

 そう、シャーレミントは笑う。おどける様に無理矢理作ったその笑みはしかし、俺から見れば泣いているようにしか見えなかった。

「結局、みんなあの戦いを引きずってるんだよ。まだ」

「……ああ」

「だからその中で、普通に暮らしていけてる強い奴が居たら嬉しいんだ。私たちは、本当に世界を救う聖戦士だったって思えるから」

 黙りこむ。

 シャーレミントには申し訳ないが、俺はそんなに大層なものじゃない。あの戦いの後悔を、未だ十二分に引きずっている、弱い人間に過ぎない。

「……買いかぶりだ」

 戦いの中で巫女姫シーフィレイアスは自らの身に魔王を降ろし、フィリエル・サイの剣に倒れた。そのフィリエル・サイも魔王に心を侵されて、俺の振るう自らの剣、エネアの聖剣に貫かれて死んだ。俺の手には、今でもフィリエル・サイの肉を切った感触が残っている。

「俺は、そんな大した人間じゃないよ。シャーレ」

 搾り出すように、言った。シャーレミントはふっと、少し寂しそうに俺を見て微笑った。

 その意味をつかむまえに、どんと背中を叩かれる。

「ほら、辛気臭い顔してないで飲んだ飲んだ。フィリエルと姫さまの弔い酒なんだから、飲まないと罰が当たるよ」

「もう、四本目に入るんだが」

 文句を言いながら、紙コップを差し出す。

 どうにも酒を飲みたい気分だった。



 酔っ払ったシャーレミントをアパートまで運び込んだ時には、もう零時を回っていた。

「大丈夫か」

 パイプベッドに寝かせて聞くと、どこか夢見心地のようにシャーレミントは「ん〜」と伸びをする。

「ありがと、クリューノ。世話かけるぅ」

「気にするな、水でも入れてこようか?」

「紅茶がいい、インスタントで良いから。パックはレンジの横の棚」

 腰を上げて、流し台の方に向かう。適当に選んだ鍋に水を入れて、ガスコンロに乗せる。沸騰までニ、三分といったところか。

「そんな事しなくても、火球で瞬間沸騰するよ」

「鍋ごと蒸発するからやめといてくれ」

 半ば本気でツッコミを入れる。酒に酔ったこの魔女はどうも魔力の制御が散漫になるらしく、一度酒場の屋根を吹き飛ばした事があった。分かって言っていたのか、シャーレミントは少し可笑しそうに笑ってそのまま黙り込んだ。

 二人の間に、どこか心地よい沈黙が下りる。りぃりぃと、名前を知らない虫が窓の外で鳴いていた。

「ねぇ」

 ふと、どこか恐る恐るといった風に、シャーレミントが口を開いた。

「泊まっていく? 夜も遅いしさ」

「いや、ここからだと十分弱だし、帰るよ」

「っこの鈍感、ホモ。死んでしまえアホッ!!」

 何故か分からないが凄い勢いで枕が飛んできて、俺が避けるより早く顔面に命中する。

 訳がわからないん。

「痛い」

「当然、痛いように投げたんだから」

 深くため息をついて、ガスコンロの火を止める。水は十分に沸騰していた。マグカップに流し込み、ティーパックをその中で泳がせる。

「砂糖とミルクは?」

「砂糖は良い。ミルクはたっぷりとね」

 要望どおりに仕上げてベッド脇のテーブルに置く。シャーレミントはほくほくと座り込み、実に美味しそうにそれをすすった。

「それじゃあ、俺は帰るから」

 鞄を掴み、立ち上がる。

「クリューノ」

 そのまま帰りかけたところで、名前を呼び止められた。

「シャーレ?」

「何も聞かないで、答えて」

 いつでも、例え追い込んでいても空元気を振舞おうとするシャーレミントらしくない、切羽詰ったような切実な声だ。俺は大人しくその通りする事にした。

「もし、あの時に。遠く遥かレムリアの地にもう一度帰れるって言うんなら、アンタどうする?」

 それは、甘美な誘惑。

 様々な記憶が渦を巻いて蘇る。王宮の庭でフィリエル・サイと打ち合った木剣、高く空をうねる雄大なりし緑の竜ティパの羽ばたき、鈴花ラセリナの庭で歌う巫女姫シーフィレイアスの声、そして――

「いや……」

 ――真赤に染まった街が、最後に思い浮かんだ。幼い少年の頃、波木の山からアイツと共に見た、赤金の夕日が。

「フィリエル・サイが……神谷こうたに達哉たつやという男がこの世界を守りたかったのはきっと、彼が聖戦士だったからなんかじゃなくて、ただこの世界の事を好きだったからなんだ。だから俺は、鞍馬くらま幹耶みきやはこの世界が美しいものだって信じてる」

 また、シャーレミントが笑った。

「それだから、アンタは強いって言うのよ」

 例えるなら真夏に咲く向日葵のような、とても明るく綺麗な微笑みだった。



 その時のことは決して薄れない悪夢のように、克明に記憶している。

 手に握ったエネアの聖剣はフィリエル・サイが息を吐くたびにゆっくりと上下する。俺はその事実をすぐには理解できず、呆然とその顔を見つめていた。

「何故だ」

 魔王の声が、フィリエル・サイの口から漏れる。何故だ。

 それは、本来なら有り得ない結末だった。俺の持つエネアの聖剣は魔王に届く筈も無く、魔王の振るう魔王剣アシュレイは俺の胴を真二つになぎ払う。それが結末の筈だった。

 だが、結果は真逆。エネアの聖剣は魔王の胸を貫き、魔王剣アシュレイは俺に届かない。逆様の、歪んだ鏡でも見ているような気分だった。

 ふいにフィリエル・サイの唇が吊り上げられる。

 それはフィリエル・サイの微笑み。直情的でいつも俺に迷惑ばかりかけていたアイツの、ただ単に素直な微笑。

「ありがとう、幹耶。ごめん……」

 斯くして、七人の聖戦士による救世の伝説は、終わりを迎える。

 ようやくに俺は全てを理解した。

 フィリエル・サイは死ぬ。自らの死によって魔王に滅びを与えるのだ。血に濡れた剣が重く、音を立てて地面に落ちる。フィリエル・サイの身体も同時に力無く崩れ落ちた。

 呆然と聞く、それが愚かな質問であることにも気付かないで。

「なんでだ、フィリエル」

「は……は、世界を、救うため、だよ……」

「なんで、世界のためにお前はッ」

「好き、だからかな……ひょっとしたら、僕は、バカなのかも、しれない……」

 それはただ純粋で身も蓋も無い、世界を救う聖戦士の答えだった。口元に浮かぶ笑みはひどく満足げで、フィリエル・サイという男に相応しい。

「それじゃあ、な」

 別れの言葉。そんなものは聞きたくなかった。首を振るとフィリエル・サイは、困ったように微笑って、中空に右拳を突き出す。

「“タルハナに、祈りを。友よ、此処に、再会を誓う……”」

 聖句だ。遥かレムリアの地で、これと同じ言葉を口にした覚えがあった。再会を、遥か一万年後の再会を誓う。

「“縁繋ぐ蛇タルハナに祈りを。友よ、此処に再会を誓う”」

 唐突に気付いた。フィリエル・サイは一万年後にまた転生する。魔王を、魔王を降ろした自らの想い人を、巫女姫シーフィレイアスを殺すために。

 自らで殺す想い人と、ただひと時の再会を得るために、一万年もの長き眠りにつく。

 同情はしない。フィリエル・サイが自らで選んだ道だ。ただ過酷だと思った。それをこの男は全く苦にする様子も無く、世界を救って死んでいく。

「さらばだ、フィリエル・サイ」

 それを思うと最期の時でも情けないことは出来ない。全身の力を込めて、それだけ言葉を搾り出す。

「ああ。またな、幹耶、一万年後……に」

 光を散らしてエネアの聖剣が消えていった。持ち主の死に伴って剣もまた眠りについたのだ。 魔王剣も崩れ去り、黒い塵に返る。

 フィリエル・サイは動かない。死んでいた。否定しようもなく、ただ笑みを浮かべて眠りについた。

 それはどうしようもなく、取り返しのつかない事実だった。

「っく、あ……達哉ァ!!」

 蒼い月の下で、俺は人生の中で最も強く、哭いた。


あと書き

 創作者の交流と研鑽の場:クリエーターズネットワーク八月のテーマ企画『終戦』用に書いた作品なんですが……ども『戦後』って感じがします。作中時間7月だし。

 七人の聖戦士が集うから波木町=七神樹町という名前の土地。とかいう設定もあったのですが、使えずじまい。続編書く機会あったら使っちゃる。



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