レディン・ハーツの死

 朝焼けに照らされた麦穂の海が、風に翻って黄金の波を作る。

 天上にいるようだと少年は思った。これより美しい物がこの世にあろうか。

 頭を振る。いや、こんな物は何処にでもある麦畑だ。ただ旅立ちの感傷が、あたかもそれを特別の物であるかのように見せかけているだけ。

 未練を振り捨てて、少年は立つ。ふいに、その名を呼ぶ声が聞こえた。


 一言で表せばそこは廃墟。

 黒く焼け崩れた家屋の跡と、焼死した人の発する臭気。いかなる悲劇が村を襲ったのかは想像難くない。

 地面に倒れ伏す遺体の中に首なしの物を見つけて、男は眉をしかめる。明らかに火事で死んだものではない。それでも何も言わないのは、それらの愚挙が全て友軍の仕業であり、また目の前に立っている黒騎士が自分の上司であるからだ。下手な事を言わぬ方が良いという理性が働いた。

「匿われていた敗残兵の死体はまだ見つかっておりません」

 男の名はアルス。身に纏うのは帝国軍の、それも将校にのみ許された白い鎧上衣である。

 見たところ歳の頃は二十代前半。帝国は新興の国家で、貴族というものが存在しない。この歳で将校というからには、よほど優秀な人材なのであろう事が窺い知れる。

「生き残った村人は全て検問しましたが、どうやら誰も知らぬようです」

 黒騎士は黙したまま何も語らない。緊張からか、アルスの背を冷たい汗が伝った。

 《黒騎士》、《シェルナンの剣》、《皇帝の懐刀》、様々な異名をもって呼ばれる大戦の英雄。齢二十八にして大佐の位にまで上り詰めた、大陸にその名を知らぬ物はいない六剣士のうち一人。おおよそアルスの知る限りにおいて最も強い男だ。緊張しないはずが無い。

「大佐殿、これはもしかしすると……」

 言葉を切る。果たして、帝国軍人である自分が上司に向かってこれを言ってしまってよいのだろうかという迷いだ。アルスの言を察したのか、黒騎士は頷く。

「敗残兵狩りを口実とした略奪か。最早、賊と変わりないな」

 じゃりとつま先が何かに触れる。黒騎士はそれを見て、ただ淡々と言葉を発した。

「アルス中尉、席を外してくれ」

「は?」

 突然の命令に若い将校は思わず聞き返す。

「少し一人になりたい」

「……御意」

 釈然としないながらも、踵を返し、その場を立ち去る。


「本当に行くの?」

 泣き出しそうな声が、少年の心を引き止めた。生まれてから十四年間聞き続けたその声とも今日でお別れだ。そう思うと、なんとも言い表せない寂しさが少年の胸を打つ。

「リーラ」

 少女の顔を見つめなおす。兄弟のように共に育ったその少女を、初めて女の子と意識したのはいつだったろう。

 やわらかに波打つ金糸の髪。零れ落ちそうな琥珀色の瞳。壊れてしまいそうなほど華奢で、柔らかい身体。ふいに愛しくなって、強く抱きしめる。

 突然の抱擁に驚いてか、少女の身が一瞬すくめられる。だが、嫌がる様子は無い。頬に、良い香りの髪が当たった。

 いつまでも、この感触が続けばいい。だが、そうする訳にはいかない理由を、少年は持っていた。

「リーラ、俺は強くなりたいんだ」

「知ってる。レディンは強いよ」

「いや、強くない」

 少女の言葉を否定する。

「俺は誰よりも、特別な者になりたい。だから、行くよ」

「いやだ」

 少女の肩が震える。泣いているのが分かった。

「いやだよ、行かないで」

「ごめん、リーラ」

 さっと身を振りほどく。これ以上抱き締めていれば、決心が鈍りそうだったから。

「でも、約束するよ。いつか必ずリーラを迎えに来る。だからそれまで……」

 待っていて、とは言えなかった。何年かかるかは分からない。ひょっとすると、彼女は別の恋を見つけてしまうかもしれない。彼女の可能性を、縛り付けたくは無かった。

「これを、持っていって」

 そう言って少女は頭に挿した髪飾りを外す。村娘が持つには少し豪華すぎるそれを二つに割り、片割れを渡した。

 少年は驚いた。その髪飾りが少女の母の形見であり、何物にも代えることの出来ない宝である事を知っていたからだ。

 驚く少年に、少女は無理やり微笑んでみせる。

「約束よ、必ず迎えに来て」

 答えようとした少年の口はしかし、ふんわりと柔らかい唇の感触に止められた。目前に迫った彼女の瞳は涙に濡れている。

「……いってらっしゃい」

「ああ、行ってくる」

 そうして、少年は旅立つ。二度と後ろを振り返らなかった。


 独り、焼け跡を見ながら黒騎士は過去の自分の、その言葉を思い出していた。

 強くなりたい。誰よりも、特別な物になりたい。だが、それは何のために?

 確かに自分は強くなった。六剣士、英雄と持て囃され、奉り上げられた。でも、だからといって何だったのだろう。

 足元に落ちていた髪飾りの片割れを拾い上げる。猛火に黒く焦げていたが、その形を見紛う筈が無い。

 特別になりたかった。だが、結局自分は誰にとっての特別になりたかったのだろう。それを知ろうとしないまま強さだけを求めて。そうして、今目の前に広がっているのはただ自分の罪だ。

「俺の欲しかった物はここにあった。だけど、もう無くなってしまった」

 飛んだ青い鳥だ。割れた髪飾りの両辺をその場に取り落とす。

 言葉にすれば全てが簡単になる。黒騎士は目標を失った。だが、黒騎士が《英雄》である限りここで立ち止まる事は出来ない。戦場で散るその時まで。

 一筋の涙がレディンの頬を伝う。零れ落ちた雫は、十四年の時を経てようやく重なり合った二つの髪飾りの欠片を濡らした。


あと書き

 創作者の交流と研鑽の場:クリエーターズネットワーク五月のテーマ企画『帰還』のために練った一作品です。

 こんだけの短編書くのに三日もかかってしまった。やっぱりリハビリが必要ですね。



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